返しきれないものを恩という

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。

浄土真宗では、宗祖親鸞聖人のご命日にあわせて「報恩講」という法要が勤められます。
お東(真宗大谷派)では11月、お西(本願寺派)では1月に行われます。ちなみにこれは聖人の命日を旧暦で捉えるか、新暦で捉えるかの差から来ています。

「恩に報いる」とあるとおり、私たちにお念仏や浄土の教えを伝えてくださった親鸞聖人や阿弥陀如来に感謝する法要となっています。
この報恩謝徳について、親鸞聖人は著作の中で、「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし。師主知識の恩徳も、骨を砕きても謝すべし」と書かれ、この詞に曲を付け「恩徳讃」として歌っています。

さて、あらためて、この言葉を見てみると、恩を返すために身を粉にしたり、骨を砕いたり、という表現がされ、そこまでしなければならないのか?と感じます。

皆さんにお尋ねしますが、私たちを産み育ててくれた父母やその父母をサポートして一緒に育ててくれた祖父母から受けた「恩」を全て返しきった!と言える人はいるでしょうか?
親から虐待を受けたり、色々な事情がある人もいるでしょうから、一概に親と捉えず、育ててくれた人と考えてくだされば結構です。

親からいただいたもの、と言われると、「産んでくれた」「ご飯を食べさせてもらった」「進学させてもらった」というあたりがすぐに浮かぶかと思います。
でも、物を掴めるようになった、周りのみんなの声を聞いて何を喋ってるか理解できるようになった、など、言われないと意識できないような受け取った物がたくさんあると思います。
そして、そのすぐに意識できないものは、感謝を返そうと思っても、どうすれば返せるのか、返しきれるのか、と考えるのが難しいものではないでしょうか。

逆に人からいただいてすぐに返せてしまうものは「義理」です。

この返そうと思っても返しきれないものが「恩」であり、それでも返そうとすれば身を粉にしたり、骨を砕くほどになる、というのが親鸞聖人の言葉の意味なのだと思います。

本願寺だけでなく、お近くの真宗の寺院でも一年のどこかで報恩講が開かれるので、ぜひお参りいただき、あらためて自分が周りからどれほどのものをいただいているか、考えてみていただきたいと思います。