相手の話を遮らず最後まで聞く

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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昨日、真宗大谷派教学研究所難波教行先生の講義を受けてきました。

私の所属する浄土真宗では、阿弥陀如来を本尊とし、阿弥陀如来が全ての人を漏らさず救ってくれると教えられます。
その阿弥陀如来が、相手を選別・区別することなく救おうとする姿勢を、経典では「摂取不捨」と書かれ、法話ではしばしば「選ばず、見捨てず、嫌わず」という言葉で言われます。

難波先生は、全ての人を救うとは「相手を大事にしていく、自分も大事にしていく」ことだと語られます。
大事にしているかどうかが端的に現れる場所として「相手の話を遮らずに最後まで、本気で耳を傾けて聞いているか」と問われました。

もし聞いたことのある話なら「知っている」と遮ってしまう。
聞いたことが無くても、話の途中で内容をまとめようと考えはじめ、自分の解釈で分析を始めてしまい、最後までそのままに相手の話を聞くことができない。

話されている方の話をそのままに受け取ることをしないのは、はたして相手を大事にしていることか、と優しい語り口で厳しく問われました。

また、ご自身が難病から身体が不自由であるため、電車で高齢女性から席を譲られた話をされました。
うれしさと共に悲しかったと。
私も席を譲る側の人でいたかった、と。

それは、席を譲る側に価値があり、譲られる側は劣っているという考えが自分の中にあった。
役に立つ人に価値があり、その人から恩恵を受けた人には価値がない、と考えていたからだ、と話されました。
そうした考え方は、自分も他人も損なう「自損損他」であったとおっしゃられました。

もちろん「自利利他」であると良いのでしょうが、私が自分も相手も大事にしないが故に「自損損他」になってしまっていないか、振り返ることをお伝えいただきました。

浄土真宗では、良い人、立派な人になれ、とは言われません。
それを目指しても、たびたび自分を傷つけ、他人を傷つけることを考え、行ってしまう。
何をするにも、ちょっとした条件や要因によって、すぐに最後まで貫くことが出来なくなってしまう存在であることを気づくことを教えられます。

まずは、目の前の人の話を最後まで虚心坦懐に聞く。
そこから始めていきたいと思います。