尊厳死と安楽死の違いは何?

遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
詳しくはこちらから。

昨日のコラムでは「尊厳死」のことを書きましたが、セミナー等でお話しすると「安楽死」と勘違いされる方が大変多くいます。
以前のコラムでも書きましたが、公益財団法人日本尊厳死協会のホームページでは、「尊厳死は、延命措置を断わって自然死を迎えることです。これに対し、安楽死は、医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めることです。」と書かれています。

世界では安楽死が認められている国があります。
世界で初めて認めたのは2002年のオランダです。
認められたといっても運用は非常に厳格です。

要件は6項目あり、全てを満たす必要があります。
・本人から自発的で熟慮された要請があること
・耐えがたい苦痛があり、良くなる見通しがないこと
・医師が患者の状況や予後について十分な情報を提供すること
・ほかに合理的な解決策がないこと
・担当医とは別に、1人以上の独立した立場の医師が審査すること
・正当な医療的方法で注意深く行われること

また、安楽死後には検死官が訪れ、安楽死を行った医師から報告を受け、適切な処置であったか確認する機関もあります。

そもそもオランダには「ホームドクター制」があり、かかりつけ医を国に届け出なければなりません。
そのため、病気になったり、安楽死を考えた場合もまずはかかりつけ医と相談することになります。
かかりつけ医は長年にわたって、その人や家族との関係を築いているので、安楽死についてもじっくり話し合うことになります。

安楽死の要件に「耐えがたい苦痛があり、良くなる見通しがないこと」とあることから、単に年齢を重ねた、とか、生きていたくない、といった投げやりな内容では認めてもらえません。
簡単には安楽死で死ねないのです。

先日、YouTubeのディベート番組で「安楽死を認めるかどうか」をテーマに議論が戦わされました。
ディベートとしては、昔からよくあるテーマです。

肯定派は耐えがたい苦痛からの解放や鎮静剤で意識が朦朧としたまま過ごすことが果たして生きていると言えるのか、という論点でした。
否定派は生命は一度失われたら戻らないものであるので、生命を失うことを安易に権利とすべきではない、という論点でした。

否定派の主張の中でちょっと考えさせられたのが、長期間入院する患者が家族の看病や介護に対する肉体的負担、精神的負担をおもんばかって、空気に流される中で安楽死を選択してしまう、という主張でした。

この空気感というのは非常に日本独特のものだと感じます。
オランダはじめ海外では、周りの意見を聞いてそれに合わせるのでなく、自己の判断、自己の意思というものが非常に求められるからです。
そのため要件にも「本人から自発的で熟慮された要請があること」とあります。
本人が言い出した、というだけでなく「自発的」であるかどうか慎重に確認されるのです。

先ほどのディベートでは肯定派が勝ちましたが、私は日本では「安楽死」は「まだ」認めるべきではないと思っています。
その理由は前述の空気感です。
日本だと前例が出来上がると、同様のケースの人達も自ら安楽死を選択すべきだ、という無言・有言の圧力が起きると思います。
また、ディベートの主張を発展させて考えると、いずれは障害者や高齢者に対して安楽死を求める空気が出てくるのではないか、との懸念があります。

周りの空気や雰囲気を読みながら共同体の輪を保つことにメリットもあると思いますが、こと安楽死については悪い方に働くことばかりが予想されます。
いずれ日本の教育が変わっていったり、移民を多く受け入れることでハッキリとした主張が求められるようになれば、また状況が変わることもあると思います。
しかし、現在の日本では空気や雰囲気によって安楽死で「殺される」人が出ないために、まだ制度化すべきではないと考えています。