滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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先月、土日に続けて法事があり、二軒のお家の方とお話をしました。
土曜の法要に来られた方は、首都圏でサラリーマンをされている方でした。
お勤め先は誰もが聞いたことのある社名で、新しいアイデアを出すとしっかりと検討してもらえ、上手くいけばボーナスも出ている、とのことでした。
一方で、社内政治で荒れている状態で、誰かへの不満を言おうものなら、話を膨らまされて自分が窮地に立たされる恐れがあると、同僚が互いに疑心暗鬼になっている、とのことでした。
いずれの派閥が力を握っても、会社が弱体化するのが目に見えているので、何とか転職できないか、と悩まれていました。
日曜の法要に来られた方は、関西圏の市役所の公務員をされている方でした。
市の財政も人員もまだ余裕があり、過度な残業などはなく、役所内の人間関係も良好とのことでした。
ただ、穏やかな環境であるが故に変化することが好まれず、改善案や改革案が出されても、上司がにこやかに「今後の検討課題にしよう」と言って引き出しの中にしまってしまう、と嘆いておられました。
このまま市役所に居続けると言われたことだけしかできない人になってしまうのではないか、と悩まれていました。
いずれの職場にいても、社員が疲弊していくことが目に見えています。
方向性は全く違うのに、組織という仕組みが病に冒されているかのような姿が見られました。
いずれの法要でも「仏説阿弥陀経」というお経をあげました。
この経典には、お浄土にいるという鳥の名前が出てきます。
白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、そして「共命の鳥(ぐみょうのとり)」です。
この「共命の鳥」の逸話と今回の組織のお話に共通するものを感じました。
「共命の鳥」は身体が一つで頭が二つあり、片方の頭はカルダ、もう片方の頭はウバカルダと言います。
共に美しい声で鳴くのですが、ウバカルダは自分こそが最も美しく鳴くのだ、と思っているので、カルダのことを疎ましく感じていました。
ある日、カルダが美味しい栄養のある果実を見つけ食べました。
ウバカルダは寝ていたので、起こさずにそのまま飛び立って別の所に行きました。
ウバカルダが目覚めると、身体に力が湧くのを感じ、カルダが噂に聞く果実を食べたのだと気づき憎しみを募らせました。
別の日、カルダが寝ている時にウバカルダは毒のある果実を見つけました。
頭は二つでも身体は一つですから、この毒を食べればカルダは死ぬに違いない、と考え、ウバカルダは果実を食べます。
間もなく、カルダに毒が回り苦しみだしました。
ウバカルダはいい気味だ、と思っていましたが、死の間際にカルダから、美味しい果実の時は起こすのが気の毒であり、身体は一つだから自分が食べることで栄養がウバカルダにも回るから、と考えていた、と聞かされました。
やがてカルダが亡くなりましたが、ウバカルダにも間もなく毒が回り亡くなりました。
仏様は、その美しい声を惜しみ、お浄土に生まれ変わらせ、仏の教えをお浄土に住むものに聞かせるようにいったと言われています。
カルダは相手に配慮しているつもりですが、思いが届かず憎しみを受け命を落とします。
ウバカルダは憎しみから相手の命を奪いますが、それが自らの命も奪うことになります。
私たちはこの社会を有能な自分の力で生きていると考え、周りを心の中で無能や低能と蔑みます。
では、例えば今、私が口にしようとしているこの食物は、私の力だけでここまで来たのでしょうか。
植物も動物も農家の方が長い時間をかけて育ててくれたものですし、それを運ぶ物流の方、加工してくれる食品会社の方、そして家の台所で調理してくれた家族がいて、初めて私の口まで運ばれているのです。
ウバカルダは自分が最も美しく鳴く鳥であり、カルダは不要だ、と思っていましたが、カルダの存在がなければ、そもそも生きてさえいけなかったのです。
私たちが生きる世界そのものが「共命の鳥」なのですが、それに気付いていません。
そのため、もう一つの頭を攻撃しようとしたり、今いる安定した環境がいつまでも続くと考えて足(頭?)を引っ張るような動きをします。
特に共命の鳥は同じ命を分け合っています。
極めて親しい者どうしが傷つけ、殺しあう姿は、親の遺産を巡って兄弟姉妹が争う姿、親が責任を放棄し子供を見殺しにする姿、子供が命を繋いでくれた親を殺す姿に通じるものがあります。
全ての人に博愛の精神を持って好きになりなさい、とは言っていません。
そんなことは不可能です。
しかし、今、憎しみ、嫌う相手であっても存在していなければ、そもそも私の命が存在しないのだ、と考えれば、たとえ好きにならずとも違った関係が生まれてくるのではないでしょうか。