滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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先週末の金曜日は、一緒に相続を学んだメンバーが関東から来るということで大阪へ泊まり付きでお出かけし、翌日も大阪で、相続について改めて学び直しをしていました。
出かけるために仕事のスケジュール調整もバッチリ、と思っていましたが、直前に急なお寺仕事などが入り、週明けにはお尻に火がつく状態に。
特に今週は補助金サポートの業務が入っていたため、補助金の事業計画書作りのためにモニタ前に座り続けていました。
事業者さんからのヒアリングシートを見ながら、その業界の動向を調べて、店舗がある地域の人口動態を確認したり、その市町村の総合計画や総合戦略計画を見たり。。。
今回の担当地域に関して、行ったことも無いのにいっぱしのコンサルティング会社みたいな文章を書いていました。
書類を作成した業界は、自分には髪がほとんど無いにもかかわらず美容系でしたが、これもヒアリングシートをもとに脳内で勤務しているかのようにイメージし書き上げました。
ある意味、恐山のイタコ状態。
私は設定などが細かく与えられると感情移入してしまうタイプなので、映画でもマンガでも感動系は泣いてしまいます。
見て泣くだけでなく、人に説明するだけでもシーンを思い出して泣いてしまうので、日頃からある意味でイタコ要素はあるのでしょう。
ただこう書いているものの恐山のイタコに本当に霊が下りるのかどうかは正直分かりません。
「お坊さんだから霊感があるのですか?」と結構聞かれますが、多分無いです。というか、霊感がどういうものかも分かりません。
神秘系とかスピリチュアルに特に興味も無く、詳しくもありません。
仏様という神秘的な存在の元にいるのにそんなんでいいの?と言われますが、仏様は信じています。
この「信じる」という所の幅が人によって大きいので、なかなか共通見解にならないのだろう、と思います。
多くの人にとって「信じる」対象は、自分の理解の中に入れることができて、説明することができる存在で、メリットなり何なりの要素を考えて選択する対象だと思います。
私は仏様のことはよく分かっていません、というかわかり得ない存在だと思っていますし、理解もできません。
経典でしばしば仏様や仏様のはたらきを「不思議」とか「不可思議」と表現されます。
「思議」を辞書で引くと「あれこれ思いはかること。 考えをめぐらすこと」と出てきます。
それに否定の語である「不」や「不可」がつくのですから、「思いはかることができない。考えをめぐらすことができない」存在だと読めます。
にもかかわらず、自分の狭く僅かな理解の中だけで理解しようとするのは、望遠鏡から見える僅かな風景だけで世界中の風景を知った気になっているようなものではないでしょうか。
言葉遊びのようですが、思議の中に生きる私たちが思議の言葉を使って、不思議や不可思議を説明しようとするのは世界のサイズ感的に無理な気がします。
そして、不思議と言われる人知を超える存在であるからこそ、私たちに救いというものが与えられると思います。
私たちが生きている間に理解できない最も身近なものは他人の心ではないでしょうか。
私からは知り得ないし、理解できないのに、そこを読み解こうとしますし、読み解けなかったり外れた時に悩み苦しみます。
他人の心は分からない、と思議の中にしか生きられない自分の手元からは手放してしまった方が苦しみが少ないと思います。
多くの宗派では、自分たちが信じる仏様や経典に「南無」します。
南無はインドの敬意を表す音に漢字が当てられたもので、現代のヒンディー語の挨拶に出てくるナマステも南無と同じ語源から由来します。
仏教ではさらに、単なる敬意にとどまらず「私の全てをお任せします」という信仰の告白の意味になります。
不思議な存在に南無するというのは、その存在を理解し、説明できるからするわけではないと思います。
私は仏様のことを理解できていない、説明できない存在ですが、南無し信じているのです。