だれも責任を取りたがらない国

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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日本では、原発を長い間稼働させているにもかかわらず、排出される高レベル放射性廃棄物、いわゆる核のゴミの最終処分場がありませんし、場所も決まっていません。
最終処分場の選定に向けた第1段階は文献調査で、北海道寿都町と神恵内村が手を上げました。
長崎県対馬市も文献調査に手を上げるかどうかで選挙の争点に繰り返しなっていますが、反対派の市長が当選しています。

文献調査に手を上げた自治体内でも賛成も反対もまとまらず、むしろ住民の対立が起きているそうです。
多額の交付金が出されていますが、金目当てとの批判も起きているようです。

記事では原子力行政は国の政策の問題であるとして、核のゴミについても国が主導的に責任を果たしていくべきだ、と述べています。
文献調査にしても、国が好適地をリストアップし、国から自治体に話を持っていくべきだ、との論調です。
国としてはあくまで自治体側に手を上げさせて、何かあっても自治体側の責任という姿勢を取りたいのでしょう。
過疎地など運営の苦しい自治体に金をちらつかせて、国の責任を果たしていない、と言われても仕方がないように見えます。

自治体の中には運営が苦しくても、原発関係の交付金に頼らないことを決意して行動しているところもあります。
山口県上関町の祝島は中国電力の原発の計画に対して補償金を拒み粘り強く抵抗しました。

中国電力の社員が「第1次産業だけでは生活は成り立たなくなる」と言われ、それに発奮し、特産品開発や自然エネルギーの普及に取り組まれたそうです。
金銭的価値では測れない島の風景、景色といったものを守るために奮闘されました。

原発建設は無くなりましたが、現在は中間貯蔵施設の建設計画が町に提案されたそうです。
人口はどんどん減少する中で、町長は提案の受け入れも選択肢の一つとして否定はしていないようです。
しかし、以前よりも苦しくなったと見るや、そこにつけ込んでお金を出そうという姿勢は前述の最終処分場の話と変わりません。

原発推進にも反対にももっともな理由があります。
しかし、推進派、特に国にはその理由をもとに全ての責任を背負っていこうという姿が見られません。
あくまで国の提案に、自治体側が自治体の責任において乗ったという形を取ろうという姿が見えます。

そして、周りにいる私たちも他人事のようにこの様子を見ています。
原発をはじめ発電、電気の恩恵を受け、停電等の不便が出ると、電力会社を叩きます。
自宅に太陽光発電を設置している人はともかく、私を含めほとんどの人は自分の力で発電せず、発電設備が近くに来ることも拒み、その中で恩恵を受けようとしています。
そして、その設備のリスクを背負った人たちを遠目に見て、正論を振りかざしています。

電気の話だけでなく、ごみ処理施設やごみの埋め立て場所、水処理施設などは多くの人が必要と考えながらも、自分の生活環境のすぐそばに計画が出ると反対します。
そして、少し離れたところで計画を受け入れた地域に対しては、交付金などのことをあげつらって批判します。

国に責任を取る姿が無いのは、そもそも私たち国民が自分たちでリスクを引き受けようとしない姿がそのまま反映されているのかもしません。