滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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私は教育関係の社会の動きや新しい話が好きで、陰山英男先生や藤原和博先生の本や講演動画などをよく見ていました。
最近よく話題になるのは、東京都千代田区立麴町中学で校長当時に宿題や定期テストを廃止した工藤勇一先生(現 横浜創英中学・高校校長)です。
昨年12月の毎日新聞の連載記事で「今、子どもたちが身につけるべき力とは何か」をテーマにインタビュー記事が掲載されていました。
インタビューの中で工藤先生が一貫して言われているのは「自律」です。
より噛み砕いて言うならば「生徒が自ら考える」ということです。
そのために教師から押しつけられるものを極力排除していった取組が、宿題や定期テストの廃止という形に表れているのだと思います。
記事で工藤先生は
「勉強は『分からないものを分かるようにすること』が目的であって、量をこなすこと」が目的ではありません。
「宿題を出せば出すほど、子どもは提出することが目的になる。」
「学校では何もやることがなくても、勉強する習慣が大事だと教えます。そうすると、いわれたことをやり、時間だけ奪われて学力は何も変わらない子が育ちます。」
毎日新聞 令和4年12月4日付
と一律に出される宿題のデメリットを話されています。
昨年、学校に行った時に子どもの担任の先生に、漢字の書き取りや算数のドリルを宿題として出す意味を聞いたところ、どの先生も「知識の定着」を理由に挙げられました。
でも分かっている子、理解している子にとっては、すでに定着できているのに「なぜこの宿題をやらなければならないのか?」と、無駄なことをしていると感じさせます。
また逆に全然出来ない子にとっては、単なる反復学習では定着しないでしょう。
結局の所、中程の理解度のボリュームゾーンの子どもたちにとって、ベターな方法が取られているだけで、俗に言う「落ちこぼれ」や逆によく出来ている「吹きこぼれ」の子どもたちにとってはデメリットの多いものであると感じます。
ギガスクール構想により、児童一人一人にタブレットが行き渡っているのですから、個別の進度、個別の習熟度に合わせた教育が出来るはずです。
例えば、一律に出すのはタブレットを使った小テストで、そこで満点を取れば以降の宿題は無し。
間違えた部分について、書き取りや別問題によるテストなどの個別対応をすればいいわけです。
しかも今は教育系のAIが間違えた箇所に応じて、一人一人に合わせた対応を見せてくれます。
例えば九九で、7の段だけよく間違える子にはそれに対応した追加出題などが出来るアプリが出ています。
ところが授業参観に行くと戦前と変わらず黒板に先生が文字を書き、子どもはノートにそれを写し、タブレットを使ったとしてもノートの代わりレベルでしか使っていません。
先生の問いに対してタブレットで入力して、一斉に前に表示すれば、わざわざ一人一人に手を挙げさせて当てずとも発表できますし、手を挙げたり声を出すことを嫌がる子どもでも発表に参加できます。
また、発表に対する子どもの意見もリアルタイムで、同時に複数の子どもの意見を表示させることが出来ます。
市内の学校の教育目標を見ると、「自ら考え」とか「個々に合わせた」とか「変化の激しい社会に合わせた」と言った言葉が並びます。
しかしやっていることは相も変わらぬ一律のマス教育です。
また個を大事にする表現がある割には、集団の輪を乱すな、ということは今でも言われるようです。
そうすると「自ら考える」とは「先生の考えを先回りして忖度する」という意味合いぐらいなのでしょう。
会社に入って、上司が何を考えるか先回りして考えろ、と言われる姿が、小学校でも行われている気がします。
工藤先生は、児童生徒が自律すれば必ず対立と衝突が起き、その中で教師が「誰一人取り残さない」という大目標さえ掲げれば、相手を尊重した答えを子どもたちが導き出す、と言っています。
相手を尊重した答えというのは多数決の結果ではありません。
工藤先生に言わせれば、多数決は子どもたちが大人に成り代わって同じことをしているだけで、少数派の尊重がなされていないと言われています。
麹町中学校の事例としては、体育祭の全員リレーについて子どもたちがアンケートを採ったところ「やりたい」が8割、「反対」が1割、「どちらでもいい」が1割だったそうです。
子どもたちの議論の結論は、全員が楽しめないのであれば全員リレーはできない、しかし希望者のみが出場するリレーを開催しよう、というものでした。
その答えが正解なのかどうか分かりません。
しかし、多数派のやりたい気持ちを尊重する、かつ、少数派のやりたくない気持ちも尊重する方法として導き出した答えなのだと思います。
たかが宿題なのかもしれませんが、口では個の尊重を謳われ、やることは一律・一斉の方式で育てられた子どもたちは果たしてどのように育つのでしょうか。