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昨日は当寺の御門徒の方の内仏報恩講をお勤めしました。
報恩講は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の命日を機会として開かれる法要です。
お東と呼ばれる真宗大谷派では、旧暦を採用して11月28日に亡くなったとして、11月21日から28日に行われます。
お西と呼ばれる本願寺派では、新暦を採用して1月16日に亡くなったとして、1月9日から16日に行われます。
御本山の報恩講よりも少し前に、各寺院や御門徒のお家で報恩講をお勤めし、自分の所を済ませてから御本山の報恩講にお参りに行きます。
この自分の所でお勤めする報恩講を「お取り越し」や「お引き上げ」と言ったりします。
取り越しとは期日を繰り上げて行うことの意味で、「取り越し苦労」という言葉が一般的でしょうか。
さて、報恩講は「恩に報いる講」と書きます。
一方で、私たちは「恩返し」という言葉をよく使いますし、最近では「恩送り」という言葉も聞きます。
少し調べると、元々は恩に対しては「報いる」ものであったのが、「送る」が生まれ、次に「返す」が生まれたようです。
ただ辞書においてはいずれも同じ意味で、私たちがよく使う「恩返し」の意味となっています。
最近、受けた恩を第三者へと渡していくという意味で「恩送り」が使われていますが、作家の井上ひさしさんが「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」の中で誤用して使ったことから広まったそうです。
さて、そもそも恩は送ったり返したりできる「もの」なのでしょうか?
ものであれば返せますし、返しきることが出来ます。
恩の語源はパーリ語で「何がなされたかを知る」だそうです。
私に対して何がなされ、現在の状態の原因が何なのかを、自分自身で考えること、と解説されています。
恩はなされているわけですから、私が求めているものではありません。
ということは、相手にとっても返されることを求められているものでもないでしょう。
ことわざで「親の恩は子で送る」という言葉があります。
親から受けた恩を親に返そうにも、親はその気は無いし、亡くなっていることもしばしばでしょう。
だから受けた恩を誰でも良い第三者に送れば、それで代わりを果たせた、というものでも無いと思います。
親の恩は子で送る、のことわざの中で、意識はやはり親に向いているのではないでしょうか。
第三者に親切や助け合いを送る、というのは映画にもなったペイフォワード(pay it Forward)という考え方があります。
これは、最近よく言われる「恩送り」とほぼ々ではないかと思います。
ただそれは単なる親切と好意の拡散でしかなく、恩に報いるのとは違うのでは無いかと思います。
私が今このようにあるのはなぜなのかを考え、そこに至るに差し伸べられた手のことを思いながら、その手がまるで現在も誰かに差し伸べられるかのように、私が何かをなす、それが「恩に報いる」ということではないでしょうか。