年回表を見て法事の日取りを決める

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
詳しくはこちらから。

元日の本堂には、今年の年回表(年忌法要の一覧表)を張り出します。
元旦の挨拶に来られた御門徒の方はだいたい年回表を確認して、法事の心づもりをされます。
準備の良い方だと事前に自分の御内仏の過去帳などをチェックしておいて、本堂の年回表で間違いないと確認してすぐに日程の相談に入られます。

日程を決める時によく言われるのが「命日より早い方が良いんですよね」または「命日より遅いとダメなんですよね」というもの。
なぜ?と問いかけると「早い方が丁寧だと聞きました」という答えをよく言われますが、さらに突っ込んで聞くと言いにくそうにして最後にこう言われます。
「周りから命日より遅く法要を行うと悪いことが起きると言われたので・・・」

そんな時に、私の義父、吉武の父親が1月2日に亡くなった話をして、それより前にするには元日にするしかないから難しいですよね、とお伝えすると、ホッとした顔をされます。

ただ、その後に「自分がやれるようにやったらいいんですね」と言われると、それもちょっと違う、という気がします。
その言い方は「やろうと思えばやれるが、無理なく自分がやれる範囲で出来ることを積み重ねていけば良い」ということを前提とした考え方だと思うからです。

丁寧かどうかはともかく、法要の日は祥月命日またはお逮夜法要としてその前日に行うのが元々の形でしょう。
しかし、祥月命日だと平日になることが多いので、多くの人は土日祝日に変更されます。
心情的には分かりますが、私の都合で日程を変えているわけです。
しかも祥月命日より前にすれば丁寧だから問題ない、という理屈づけはなおさら意味が分かりません。

つまり私たちは、本来の内容を私の都合に合わせて変更してしまっています。
「無理してやろうと思ってもやり切れない私である」という出来ない私が前提ならば、「やれるようにやったらいい」という言葉は出てこないのではないでしょうか。

この自分自身を「やろうと思えばやれる」と思っているか「やろうと思ってもやり切れない」と思うかで、法話の聞き方も異なるのではないでしょうか。
やれると思っている人は、自分の能力を肯定しているので、それにプラスアルファする知識として法話を受け取ると思います。
一方でやり切れないと思っている人は、自分の能力を否定しているので、自分を全く違うものにする存在として法話を受け取ると思います。
知識として受け取とるなら、学問を修めた学者の方などばかりが救われていくことになるでしょう。
そうではなくて、自分を違うものにする存在であるなら、今の姿がどうあれ救われていくと思います。

新年に初詣に行かれ、神様や仏様にお参りされるかと思います。
神様や仏様さえ、私の都合で私の思うとおりにしようとしていないか、新年からご自身を振り返る機会にしていただきたいと思います。