どこでどんな暮らしをして、何を幸せと感じるのか

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
詳しくはこちらから。

芥川賞作家でもある玄侑宗久さんが、能登半島地震に関する特集記事でインタビューに答えられていました。

金沢などに避難する人たちに思いを寄せられ、東日本大震災との違いも考えておられました。
今回の震災で避難する時に近所の人に「また戻る」と言っていても本当に戻れるか分かりません。
一方で東日本大震災の時は放射能のため迷う余地なく避難するしかありませんでした。
私もコラムに書いた中学生の集団避難のニュースにも心を痛められていました。

全く知らなかったのですが、玄侑さんは東日本大震災の後の国の復興を検討する会議に委員として参加されたそうです。
その際には会議の方針が「合理化」に向かっていると感じ警鐘を鳴らしたそうです。
今回も奥能登の不便な地域を捨てさせて今、流行りのコンパクトシティを目指そうという声が多く上がっています。

過疎が進んだりして地域の商店がなくなり不便になるほど、住む人の不満は高まります。
経済合理性から言えばコンパクトシティを検討するのは当然の流れです。
しかし、高齢になってから新しい街に移り、玄侑さんがおっしゃっている「毎日、ご近所と顔をつきあわせて気兼ねなく話す」生活が果たしてできるのだろうか、と疑問も出ます。
コンパクトシティになれば利便性は高まり、不満は解消されるでしょうが、その暮らしはどれほど幸せでしょうか。
おそらく不便な地域であったであろう輪島の朝市にお店を出して毎日顔を合わせていた人は不満はあったでしょうが不幸だったでしょうか。

過疎地域を維持しようとすれば、お金も人手もたくさんかかります。
過疎地域を維持することによって、不幸が生み出されているならば、コンパクトシティを目指すべきでしょう。
しかし、コンパクトシティを目指すことによって、むしろ不幸が多く生み出されるのであれば、過疎であっても地域を守るべきではないでしょうか。

コンパクトシティを目指すということは「ミニ東京」を作っていくわけで、代わり映えのしない町がどんどん出来上がってきます。
自分が、どこでどんな暮らしをしたいのか、何を幸せと感じるのか、という基準が無いからこそ、誰かが理屈で言った街の形でいいじゃないか、と言ってしまっている気がします。
何度も繰り返しされてきたこの議論の中で、いい加減、立ち止まって考える時期に来ているのではないでしょうか。