滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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昨日の投稿の続きです。
体験活動の狙いの二つ目は「お互いの仮面を剥がして人間の付き合いをすること」です。
集まってくる子ども達の家庭は、良い意味で市内でも教育に対して意識が高めの家だと思います。
GW明けくらいから毎月一回ずつ土曜日か日曜日に活動をしますが、面積が県内一広いウチの街で集合時間の朝9時にわざわざ集合場所まで親が車で送ってこないといけません。
毎月の活動に特にお金はかかりませんが、夏休み中のキャンプは少しお金がかかります。
参加した子ども達を見ると、小4から小6ですがきちんと挨拶をしますし、初めて出会う他の子ども達とも仲良くしようとします。
課題を与えると真面目に取り組み、ほぼ全員が主体的で、役割分担しようとします。
でも、この世代の子ども達がこんな「いいこちゃん」な訳がないです。
5月から活動をはじめ、3回目の7月あたりから、そろそろ仮面が剥がれてきて喧嘩が始まります。
やっとお互いの主張が出始めて、頭も良いので互いに正論をぶつけ、譲れなくなります。
これまで理屈の上では正しい意見を言えば自分の主張が通った経験は多いと思いますが、相手も正しい意見を言ってきてぶつかる経験はなかなかないと思います。
手を出すところだけはすぐに止めて、感情をクールダウンさせて、お互いが考えるヒントを出して話し合わせます。
何せ翌月の8月には同じ班としてキャンプに泊まり付きで行かないといけないので、子ども達としてもいつまでも喧嘩していられません。
お互いに相手が言っていることも正しい、と認めた上で、自分の意見の譲れない部分を考え、妥協点を探していきます。
「なんかムカつく(生理的に合わない)」という言葉も出ます。
それも人間ならやむを得ないことだと伝え、生理的に合わないのはいいけど、喧嘩したままの班でいいか考えさせます。
仲良くできないなら仲良くする必要はないけれども、喧嘩したままで他の班のメンバーが困ってしまうのは、君が希望していることなのかな?と尋ねます。
子ども達なりに、仲良くするとか友達でいる、という訳ではないけれども折り合いがつくところを探します。
そんな喧嘩を乗り越えて8月にキャンプに出かけると、行きのバスの中ではワクワクの気持ちと、先月までのぶつかり合った気持ちがない交ぜになって、何とも言えない表情で座っています。
そして、キャンプ中の楽しい出来事や、活動の中での喧嘩相手の良いところなどを見たりして、さらに気持ちがぐちゃぐちゃになっていきます。
各班に入るボランティアスタッフには事情を話しておきますが、特別に仕掛けるようなことはしないで、と伝えます。
話に来たり、相談しに来たら、真剣に話を聞いてあげてください。でも、ド真剣になると疲れてしまうので、そこは適当に抜いてください、と言っています。
これは私が子どもを「サイズの小さな大人」と思っているからです。
自分自身を考えた時に、誰かに相談しても、適当に聞かれて、適当な答えをする人とは距離を置きます。
かといって相談すると、やたら前のめりになって熱い言葉をかけてくる人ともちょっと距離を保とうとします。
ボランティアスタッフには、ほどよい言葉と意識の壁打ちになるような相手になって欲しい、と考えていました。
子ども達は葛藤を超えて、いつしか気持ちを因数分解していきます。
あの友達とは合わない、と感じる気持ちと、その友達の良さを認めてしまう気持ち。
自分が正しい、と思う気持ちと、友達も正しい、と思う気持ち。
ぐちゃぐちゃになっているそれらの気持ちを切り分けていきます。
そして、それらがどれも並び立つものだ、ということを体験を通して感じていきます。
キャンプから帰って9月の活動に入る頃には、喧嘩した相手とも、まあそれなりの付き合い方をするようになります。
そしてその相手と班活動をする時と、本当に仲が良い友達と遊ぶ時で自分を使い分けていくようになります。
5月に初めて来た頃には、自分の色々な気持ちに「良い子」の仮面をかぶせて、外面良くやってきた子が、キャンプを経て自分の気持ちを出しながらも、色々な人と関係を作っていくようになります。
こういう姿は仏法に生きることにも通じるのではないかと思います。
仏法に生きるようになれば、悩み事や苦しみがなくなってハッピーになるわけではありません。
やはり喜怒哀楽全ての感情がやって来ますし、憎しみの心も湧くでしょう。
ただ、なぜその気持ちが湧くのか、という根本の所を知ることで、喜怒哀楽に振り回されるのでなく、喜怒哀楽に付き合っていけるようになると思うのです。
修行をするお坊さん、というと、いつも静かな心持ちで怒りも苦しみも表情に表れないような姿を想像しそうですが、皆さんはそんな無表情・無感動になりたいと思っていますか?
学校も含めてわざわざ意図して集団生活をさせて学ばせることは何か、といえば、自分が正しくとも意見が通らない不条理や、時には納得できない意見の元で動いていくことがあるという理不尽を感じるためです。
その時に、モヤモヤした気持ちを抱えながらも集団に従うのか、爪弾きにされるかもしれないけれども集団を変えようとするのか、はたまた集団を離れて一人になるのか。
集団のサイズが小さければクラスや学校でしょうし、大きくなれば会社や社会と言うことになるでしょう。
会社でいえば、従来からの会社のルールに従うのか、会社のルールを変えていくのか。
そういった練習をするために体験活動が役立っているのではないかと思います。