平凡にはなりたくない人へ

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
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ネット記事で東京の進学校である桐朋高等学校の卒業式での答辞が話題となっています。

内容は、バタフライエフェクトの話から始まり、新型コロナによる学園生活への影響、緩和されてからの各種行事の熱狂、卒業後の世界に向けた希望と決意などが語られています。
そしてその文中に卒業生293人の名前の一文字が取り入れられ、担任団の名前も入れられているという仲間に向けたメッセージも込めれた秀逸なものとなっています。
一読の価値はあるので、ぜひ上記のリンクから読んでいただきたいと思います。

自分自身のこれまでの卒業式というと何らかの思い出があります。
保育園の卒園式は全く記憶になく、小学校卒業式は四月から着ることになるブカブカの中学校の制服を着た晴れがましさと恥ずかしさがありました。
中学の卒業式では、同級生の多くが地元の高校に進む中、京都の私立高校に進学を決めたので寂しさがありました。
高校の卒業式の時は浪人することを決めて臨んだのですが、開始期前に担任に肩をつかまれ「筑波大学を蹴ったのか、何で行かなかったの?」と言われました。
大学の時は単位ギリギリで卒業を予定していたので、卒業式の名簿に自分の名前を見つけホッとしました。

地震が卒業生の時に、桐朋高等学校のような答辞で印象に残っているものは正直ありません。
ただ中学の卒業式で在校生からの送辞のワンフレーズだけはずっと覚えています。
それは「君は将来、平凡ではいたくないと思うかもしれない。では、非凡とは何なのか。非凡は平凡を積み重ねた上にあるものだ。」というものです。
送辞の文は先生が作ったものなので、在校生は読み上げただけでしょう。
しかし、なぜか今でもよく覚えている言葉になっています。

中学を卒業してから、沢山の突き抜けた才能のある人と出会って、天才や秀才というものを目の当たりにしました。
そして自分が非常に平凡であることを痛感させられました。
しかし、非凡ということと、天才や秀才は違うものだ、ということも感じました。

非凡は、決してこれまでに無いものを産みだしたり、今までのものを劇的に改善させたりするのではなく、毎日の雑務をちょっとだけ良いものにする程度のことではないでしょうか。
言ってみれば平凡の半歩か一歩先ぐらいのことだと思います。
そんな非凡を産みだすのは、日々の平凡なことや雑務と呼ばれることに何か意識を持って取り組んだ積み重ねた習慣の上にあると感じます。

平凡とは自分自身が変わることを諦めて、日々の雑務を漫然と惰性の中で行ってしまうことではないでしょうか。
取り組み続け、歩き続ければ、誰しもが平凡の少し先にある非凡にたどり着けると思います。