滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬・終活のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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10月にご縁があって通っている「みとりのたんぽぽサロン」を主催している、看取りステーション滋賀「たんぽぽ」代表の西河美智子さんが新聞の取材を受けられていました。
先日は看取り士のの映画である「みとりし」も大津で見てきました。
看取り士は、余命告知を受けた人が自宅などの希望する場所で臨終が迎えられるように、環境づくりや臨終時の立ち会いをされたりしています。
映画でも、看取り士が亡くなる方のご家族に、まもなく亡くなる方を抱くように首の下に手を入れたり、手を握ることをアドバイスして促していて、命を終える瞬間を感じておられました。
私自身、亡くなる方の臨終に立ち会ったこともありますが、心電図の数値がゼロになってアラームが鳴るようなデジタルな感じではなく、徐々に命が尽きていくアナログなグラデーションのある感じがしました。
仏教で亡くなることを指す涅槃(ニルヴァーナ)は、「火が消える」という意味ですが、まさに揺らめいている火が吹き消されるようなイメージです。
その命の火の終わりを感じていくことが、西河さんの記事の中にある命のバトンを受け取ること、ということではないかと思っています。
命終えていく瞬間にグラデーションを感じるので、現代の、死をバッドイベントにして人の人生が打ち切られるように終わってしまうという考え方には非常に違和感を持っています。
死ぬためには生まれなければいけないわけで、毎年毎年生まれたことを祝っているのに、その最後の死に関してだけ極端なマイナスイメージが付いているのは何かが違うと思うのです。
コラムでも何度か書きましたが、現代は老いれば老人施設や介護施設に入れられ、病気をすれば病院に入れられ、亡くなればたちまち棺に入れられてしまい、老病死の姿を目にしたり触れることが少ない社会になっていると感じます。
若さ、健康、長寿が良しとされ、それから外れていく姿は、多くの人に見えないように隠されていきます。
しかし、どれもがお釈迦様が出家のきっかけとした四門出遊に出てくる内容であり、未だに私たちの苦しみの基となっているものです。
死をバッドイベントとしてしまうと、死んでしまえば終わりだから、今何かを頑張っても無駄、といった虚無的な考えに陥りがちになります。
亡くなる人が看取ってもらうことで、これまでの生への充実感と死の受入が出来て、看取る人が受け継がれていくものを感じれば、生きること死ぬこと双方への想いが変わるのではないかと思います。