滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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ロシアとウクライナの戦争が始まって一年以上経ち、イスラエルとハマスの戦争も始まってしまいました。
今から50年後の教科書では、この2023年は既に第三次世界大戦の只中なのかもしれません。
「人間は考える葦である」という言葉を遺したフランスの哲学者パスカルは、他にも後世に残る様々な言葉を遺していますが、これだけ軍靴の音が聞こえてくると、次の言葉が思い出されます。
> 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。
> 力のない正義は反対される。
> なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。
> 正義のない力は 非難される。
> したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。
> そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。
> 正義は論議の種になる。
> 力は非常にはっきりしていて、論議無用である。
> そのために、人は正義に力を与えることができなかった。
> なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。
> このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。
「正義は論議の種になる」は大きなポイントかと思います。
ロシア、ウクライナ、イスラエル、ハマスそれぞれが自身の都合を話すので、それぞれの正義が振りかざされます。
正義を測る尺度はないので、自分こそが至上であるとして相手への攻撃が続きます。
先日、知人と話していたら、各国家が正義を振りかざすのなら、国連が国連軍を用いて戦争を解決すれば良い、と言っていました。
その考え方からは、かわぐちかいじのマンガ「沈黙の艦隊」が思い出されます。
世界政府という超国家組織の下に「政軍分離」として軍事力を結集し、特に「沈黙の艦隊」として海に核兵器を持った原子力潜水艦を配置して抑止力とする考え方です。
国益という正義を越えて、国家間・地域間の紛争を解決する軍事力を特定の国ではない組織に委ねるのです。
また、その抑止力である原子力潜水艦は国土や国民を持たないので、攻撃する価値のない存在となるというものでした。
政軍分離が現実的かどうかは、三つの観点で考えられると思います。
まずは政治的観点です。
政軍分離は、国家間の利害対立を超国家組織に委ねることを意味します。
しかし、超国家組織も利害関係に影響される可能性があります。
例えば、国連安全保障理事会は常任理事国の拒否権によって行動が制限されることがあります。
また、超国家組織の決定に対する世界市民の合意形成や監視が困難になることも考えられます。
そうした点で、政軍分離は政治的な課題を解決するというよりも、むしろ複雑化させる可能性があります。
次は軍事的観点です。
政軍分離は、軍事力を超国家組織に集中させることを意味します。
しかし、これは軍事的なリスクを増加させる可能性があります。
例えば、超国家組織の軍事力が紛争解決に不十分だったり、不公平な処置だったりする場合、国家の安全保障が損なわれることがあります。
また、逆に超国家組織の軍事力が過剰だったり、暴走したりする場合、国家の主権や人権が侵害されることがあります。
そうした点で、政軍分離は軍事的な平和を保つというよりも、むしろ危機を招く可能性があります。
三つ目は倫理的観点です。
政軍分離は、核兵器やその他の大量破壊兵器を超国家組織に委ねることを意味します。
しかし、これは倫理的な問題を引き起こす可能性があります。
例えば、超国家組織が核兵器やその他の大量破壊兵器を使用する基準や条件はどう決められるのでしょうか?
また、超国家組織が核兵器やその他の大量破壊兵器を使用した場合、その責任はどこが負うのでしょうか。
そうした点で、政軍分離は倫理的な正義を実現するというよりも、むしろ違反する可能性があります。
以上の三つの観点から考えると、政軍分離は現実に実現可能ではないと考えますし、そうした点で国連軍が入っていくというのも違うのかな、と思います。
また現在のテロは国家や国民という国という概念や枠組みを越えてしまった気がします。
少し考えただけで戦争が解決するのであれば、どこでも戦争は起きていないでしょう。
容易くはないからこそ、実現のために考えて努力しなければいけないのだと思います。
そういう姿をパスカルは「人間は考える葦である」と言っているのではないでしょうか。