世間の底なし沼から足首を捕まれている

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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田舎町で育ったので、地元の人は私がお寺の子どもだということをみんな知っていました。
養母からも父親に顔がそっくりなので、名刺をぶら下げて歩いているようなものだ、と言われていました。
なので、一挙手一投足が全て誰かに見られているような幼少期を過ごしていました。

そんなはずは無いでしょうが、学校の成績もみんなに知れ渡っているのでは無いかと思い、満点とはいわずとも悪い成績は取れないと思っていました。
世間的に良からぬことに色々と興味はありましたが、ほぼ手を出さなかったのは誰かが見ている、と言う気がしたからかもしれません。

自分の寺から別の寺に養子に行き、宗門大学である大谷大学に行くと、お寺の子弟が大勢いました。
子弟の多くは生まれて以来、自分の寺で法務に関わった経験がたくさんあるので、読経の授業である声明などを、そこそこにこなしていました。
そんな姿が、寺院出身で無い在家出身の学生には不遜に見えるようで、寺院子弟の態度についての不満をよく聞かされました。
特に在家出身で僧侶資格を取る学生からは、寺院出身者が大した努力もせずに大きなお寺の後を継ぎ、不十分な教化しかしない、と言われました。

私の目から見ると、寺院出身者は外には表さなくても「お寺の坊ちゃん」「お寺のお嬢ちゃん」と言われ、世間の底なし沼から足首を捕まれたままで過ごしてきたように感じていました。
特に長子で男性ともなれば、周りが口々に「跡継ぎ」と言い、小さい頃から人生を決めたように感じてきたでしょう。
今の世の中だから、そんなことは気にせずにお寺を飛び出せば良い、と言う人もいますが、周りの期待を裏切って実家の寺に戻りにくくなる選択肢をそう容易くは選べないでしょう。

寺院出身者を批判していた在家出身がその後どうしたのか見ても、お寺に入ったという話はそうは聞きません。
全国的には空き寺や後継者不在の寺院は数多くありますが、都市部に近いとか檀家軒数がそれなりの数があるような所は、寺院関係者からの紹介などでだいたい埋まってしまい、条件が悪いところしか残りません。
もちろん条件が悪くても縁をいただいた、と入寺して行かれる人もいますが、私の周りで聞こえてきたのは条件を理由に断られる例ばかりでした。

ウチの家でも男の子が二人いるため、檀家さんは後継者として期待をされていると思います。
また檀家さんには期待していることは口に出してもらっても構わない、と言っています。
しかし我が子には、檀家さんが期待していても自分がお寺以外の道を選びたいと思えば出て行って構わない、とも伝えています。

我が子が大きくなった時に、底なし沼から自分の足首をつかんでいる檀家さんの期待という手をどのように受けとめるのか。
振りほどくのか、手を携えるのか、はたまた沼の手の方が足首を離してしまうのか。
いずれにせよ最後は我が子が「自分で決断した」と考えて選択してほしいと思っています。