滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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彼岸の中日にあたり、私のお寺でも彼岸会の法要をお勤めしました。
寺族合わせて20人以上の方がお参りいただき、コロナが開けたと言われてから一番多い参詣者ではなかったかと思います。
秋の彼岸会の後にはいつも定例の役員会を行っています。
夏に本山から御依頼という名の割り当てがあるので、それを役員さんに確認いただき、その集金を御門徒の方にお願いしています。
今回は、来年に高島秋講という大きな法要の順番が回ってくるので、そのことについても会議を行いました。
高島秋講は8月下旬に5日間にわたり開かれる大きな行事です。
そのため会所と呼ばれる会場寺院の御門徒の方には相当のご負担がかかります。
以前は、開催にあたっての出役をほぼ全て会所の寺院の御門徒にお願いしていたのですが、それだとウチの寺のような小規模寺院では必要人数を集めることすら難しくなってきています。
来年の開催にあたっては近隣寺院にも人を出していただき、どれだけ小規模でも開催できるような仕組みを構築しようと考えています。
今日の役員会の中では、開催することが非常に負担である、なぜこんな負担を負わないといけないのか、といった疑問と不満も聞こえました。
おっしゃられる方の言い分としては、自分はそれほど仏教や真宗の学問研鑽の場は求めていない。
もし学ぼうとしたり、必要だと感じたならば、自らお金を出して出かけて行きもするので、それをこんな負担までして開催する必要があるのか、といったものでした。
その方の言い分はよく分かります。
ただ、それはこの高島秋講が行われなくても、自分の身近に沢山の学ぶ場が開かれるということが前提になります。
現実には、負担が大きいといって地域で開かれている多くの学ぶ場が閉じられており、本山や宗門大学である大谷大学であっても、一般の方が敷居低く学びはじめられる所は少ないのです。
高島秋講のように長年にわたって、通いやすい自分の地元で開かれている場は現代では非常に少ないです。
実際のところ、開催の負担は大きいと思いますし、それを軽減するための手立ては何かと打つ必要があります。
ただ、負担だから止めてしまえ、となって、身近に仏教や真宗を感じられなくなったのが現状です。
そして、負担ではあるけれども、それをグループ内で順々に回すことで、お互い様の感覚で続けているのが高島秋講なのです。
江戸時代の頃には一か月間開催され、昭和でも7日間開催されていました。
その頃の方が便利な道具も少ないのでもっと負担は大きかったと思いますが、それでも開催しようと思われたのです。
不満を漏らすほどでなかった他の役員の方からも、言われたことはやるから指示して欲しい、と指示待ちの発言がありました。
開催日になって、会場係や受付係、食事係等に至るまで、私が走り回って指示を出せるのであれば、できないこともないでしょうが、現実は私も法要にかかりきりになり、各スタッフの様子を見に行くこともできません。
そのため各係の中で段取りを決めてもらって、当日にトラブルが起きても、係内で対応してもらうしかありません。
こうしたことも少し前の世代の方は、むしろ自分で勝手に決めていかれて、こっちの言うことをなかなか聞いてくれないぐらいだったのにな、という気がします。
ただ勝手に決めていかれても、自分のお寺のことだから自分が主体的に関わっていくのだ、という姿勢がありました。
現在の役員の方は言われたことはやるけれども、お寺のことは負担だからできるだけ関わりたくない、という姿勢がしばしば見られます。
お寺は、単なる葬祭ホールや集会所ではないし、身内が死んだ時にだけ関わるところでもありません、
死ぬことだけにフォーカスが当たりがちですが、自分がどう生きていくのかを考えたり学んだりする場です。
今日、本山からのメールマガジンの中に一休禅師の歌がありました。
世の中は食うて稼いで寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ
自分の人生に主体的に関わらず、学ぶこともなければ、程度の差こそあれ、ただ「食うて稼いで寝て起きて」いるだけではないでしょうか。