忠臣蔵は仇討ちをネタに再就職しようとした

滋賀県高島市の住職系行政書士の吉武学です。
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今日、12月14日は「忠臣蔵」で有名な赤穂事件の日です。
元禄14年3月14日に江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に斬りかかり、即日切腹、所領没収、お家取り潰し。
その家臣である大石内蔵助を中心とするグループが、元禄15年12月14日に吉良邸に討ち入り、吉良の首級を挙げたという事件です。

忠臣蔵ゆかりの赤穂市や京都市山科では義士まつりが開催されています。

山科義士まつり 京都 年末の風物詩 公式サイト www.gishimatsuri.com

なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのか、本当の理由は記録されておらず、作品ごとにその理由がドラマチックに描かれています。
そして、多くの作品では、家臣団が討ち入りをしたのは主君の「仇討ち」のためという描き方がされています。

これに異を唱えるのが堺屋太一さんの「峠の群像」
仇討ちを果たした忠義者として再就職の道を切り開こうとされていると描かれました。
著作が出たのは高度経済成長期の昭和57年、ちょうど仕事と生き方を結びつけて考える時代だったわけです。

また、忠臣蔵は一人一人の登場人物に全てエピソードがあり、決してモブにならないところが、またこちらを引きつけます。
それも、討ち入りした四十七士だけでなく、それ以外の人物にもエピソードがあるため、だいたいドラマでは描ききれずにいくつかの話だけが抽出されます。

例えば、赤穂藩の隣の藩の藩主であった脇坂淡路守は、江戸城の刃傷沙汰の直後、吉良上野介にわざとぶつかり「家紋を血で汚すとは何事」と扇子で殴りつけて浅野内匠頭の恨みを晴らします。
赤穂浪士の武器の準備をした商人、天野屋利兵衛は取り調べに際して我が子に歯がむけられ脅されても「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割りませんでした。
大石内蔵助が浅野内匠頭の正室であった瑶泉院に討ち入りの予定を伝えようとしたところ、間者がいることに気づき、慌てて嘘で取り繕ったところ追い出されてしまい、後に瑤泉院が気づいて泣く、南部坂雪の別れなども有名です。

赤穂浪士最年少の矢頭右衛門七の母は自分がいるとこの足手まといになると自害します。
岡野金右衛門は吉良邸の図面を手に入れるため、大工の娘であるお鈴と恋仲になって騙しますが、その事に苦しみます。
赤垣源蔵は、討ち入りが決まり暇乞いをしに兄の家に行きますが、留守であったため兄の羽織の前で別れの杯をします。

どの話もそれだけで短い小説が書けそうな魅力的なストーリーになっています。
忠臣蔵にゆかりの今日、あなたもエピソードの一つでも触れてみませんか。