みんなが求めている答えを出す

滋賀県高島市住職系行政書士吉武学です。
遺言・相続・葬儀・埋葬のお悩みに「三つのそうだん」でお応えします。
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長男は今年小学4年生、コロナのまっただ中で小学校の入学式を迎えたため、入学式の翌日から夏休み前までは通常の形での授業はありませんでした。
共働きなど家で見られない子どもは一応登校しますが、教室で距離を開けながら課題を行っていました。

コロナの時期にはタブレットなどのオンラインによる授業などが全国で模索されていましたが、我が家のような入学したての子ども達にはまだ学校からのタブレットもなく、プリント等であったと思います。
まもなく学校再開というあたりでは自宅のデバイスを使って、ホームルームなどが開かれていました。

当時の報道を見てみると、各家庭のタブレット等のデバイスを使ってもらい、それを持っていない家庭にだけデバイスとポケットWi-Fiなどを貸し出すことで授業を始めたところが取り上げられていました。
一方で、一斉に同質のものを提供するために、学校や教委が人数分のデバイスを全て揃えてから配布したところもあったようですが、やはりスタートは遅めになったようです。

高校や大学だとオンラインによる授業であっても、YouTubeを見慣れている子などは、比較的スムーズに取り組めたと思います。
一方で、小学生などはオンラインということによる興奮というかはしゃぎなどもあり難しかった面もあるようです。
ただ、これまで不登校であった子がオンラインであれば授業を受けることが出来たり、授業中に手を挙げるスタイルは出来なかった子が、チャットなどを使って授業中に発言するような姿も見られて新たな可能性があったことが報じられています。

学校での「学び」の大きな部分は定められた教科の学習であるとするならば、オンラインによる授業でほぼ達成されてしまっています。
つまり登校すること、極端に言えば特定の学校に所属してみんなが顔を合わせることを求めなくてもよいことが分かりました。
教科の知識を学習するだけなら学校という存在が不要だとみんなが気づいた中で、何のために学校が必要なのかが示される必要があると思います。

昔の学校教育は、均質な環境で均質な授業を行い、一定レベル以上の均質な人を労働環境に送り出すことが求められていました。
これは色々な所で言われているとおり、戦前の兵士育成や高度経済成長期の労働者確保を中心に大いに役立った施策だと思います。
そしてこれが行き過ぎた結果として、産業構造が経営者と自営業者が1割に対して雇用されている労働者が9割という環境になっています。

以前は9割の労働者に対して、会社の大きな方針が出され、それに対して没個性で取組み、業務の一部についてはより効率的な方法をOJTで模索していくカイゼンが労働者内から提案されることで上手く回っていました。
しかし現在では、没個性を求めていた9割の労働者に、急に会社の大きな方針や新規の企画を出させようとしています。
しかも個性を出す訓練もさせていないのにです。

小学校などで「それぞれの個性を認めた教育」とよく言っていますが、暗黙のうちに「全体の輪を乱さない」も合わせて強制されている気がします。
授業参観に行くと、相も変わらず子ども達が手を挙げて先生が指名して一人だけが発表しています。
しかも発表後に周りの子が一斉に「合っていると思います」「いいと思います」と言うのです。
みんなが求めている答えを出した、ということを繰り返し訓練されている気がしました。
それはいつしか教室内の同調圧力となって、みんなが求めていない発言をする子を「空気が読めない」と言って、イジメるもとになっているのではないでしょうか。

タブレットをはじめDX化するということは、個別対応と情報の一斉化が可能になったということです。
個々の子ども達の学習の進捗に合わせて、タブレット内のアプリが個別のカスタマイズをした出題や指導が出来ます。
授業中の発表を手を挙げることなくタブレットに入力して一斉にみんなで確認することが出来ます。
これによって個別指導も含めて基本的な授業の進行を余裕を持ってすることが出来るはずです。

一方で、余裕があれば独特の答えや発言についてもみんなで共有することもでき、そういう発言が出ることを許容するような指導も出来ます。
よく海外で言われる「あなたの発言に賛成できないし、あなたという人も好きになれないが、あなたがその発言をすることは保障されるべきだ」というやつです。
そういう本当に自由な発言が許される環境があって、発言する機会が度々あって慣れているからこそ、初めて個性が出た発言があちこちから出てくるのだと思います。

今後、何のために学校が必要なのか、といえば、これまでの社会が同質性を求めてきた状況を打ち破るため、と言えるのではないでしょうか。